Image

自己紹介

今更ながら自己紹介を。


いや、ネタがないから身を削ってる訳ではないです。。。

単なる自己開示です。

Pocket

Image

SONY DSC-RX1R, 1/80, f/3.5, ISO200, Photo by eto

はじめに

自己紹介と言っても何を書けばよいか不明なので、簡単な属性、趣味趣向と、あとは時系列で今までの人生を振り返ってみます。


●名前:衛藤典昭(Eto Noriaki)


●血液型:B型


●星座:天秤座


●集めているもの:石膏像、蒸留酒


●好きな色:白、黒、グレー、ブルー


●好きな酒:シングルカスク宮城峡、響17年、ゴードン47℃


●好きなタバコ:パーラメントライト100s


●好きなチーム:中日ドラゴンズ、日本ハムファイターズ


●好きな東京の街:荻窪、新宿、丸の内


●座右の銘:いつか傷付くことさえも出来ない日が必ず来る



幼少期 - 仮死状態スタート

名古屋市の東海病院にて仮死状態で生まれる。その後、何時間かしてて覚醒。事なきを得る。


最も古い記憶は3歳の時、保育園の入園式。泣き叫んで入園を拒否してたのを良く覚えている。保育園では、背が高くてダントツ足が速かった。残っている写真を見ても、そりゃ速い訳だわ・・と誰もが納得するほどほど、一人だけ走り方が違っている。正に韋駄天。足は速かったが、3年通っても、自分一人だけ自分の名前をひらがな・フルネームで書けず、ちょっと遅れた子だった。


小学校に入ると、何とか字が書けるようになり学力も人並みになったが、背が伸び悩み、運動神経も並になってなっていった。勉強に興味はなかったが、たまに集中力を出すとそこそこの点がとれた。だから一層興味を失ったのかもしれない。必要がある時、追い込まれた時にやればいいじゃん、という考え方だ。そのあたりの姿勢は今現在もあまり変わっていない。学校の得意科目は美術。釣りが大好きで、毎週のように近くの野池でブラックバスやブルーギルを釣っていた。



中高時代 - セピア色の青春

中学時代も、特に可もなく不可もない人並みな感じで過ごしたと思う。ただ、思春期特有!?の悩みが多く、食が細くでガリガリもやしっ子だったのを良く覚えている。部活はバレー部(補欠)。得意科目は理科と美術。中学の後半から高校に掛けて、また一気に背が大きくなった。魔界塔士SaGaにドン嵌りしたのもこの頃だし、風の谷のナウシカを見て得も言われぬ感動を味わったのもこの頃。


高校は公立の進学校に。正直、高校時代のことは良く覚えていない。何をしていたかの記憶がないのだ。多分、何も生産的なことをしてなかったのだと思う。やりたいことも、これと言ってなかった。辛うじて思い出すキーワードは、ゲーム、エロ本、カラオケ、パソコンぐらいか。。灰色とまでは言わないが、セピア色の高校時代だったかもしれない。学校では英語が得意で物理が苦手だった。高2の時に、150km離れた琵琶湖までママチャリでブラックバスを釣りに行った。1週間ほど滞在して、2匹だけ釣れた。


地元を離れて一人暮らしがしたかったので、現役で受けた地元の私立はすべて不合格にして、半ばわざと一浪。今思えば色々とお金が勿体無かった。お父さんお母さんすみません。


自慢ではないが、一浪決定後、2か月で総合偏差値が20上がって、そのまま一年変わらなかった。そして無事、関西の某私立大学に合格。浪人時代にそれまでの交友関係のほとんどを断ち切ったため、今まで同窓会に呼ばれたことは一度もない(泣)。浪人時代は、当然ずっと一人で居ることが多く、自分自身に向き合っていろいろと考えた結果、なんか妙に成長した実感がある。自分の本当にやりたいことが分かったのもこの頃。河合塾の前の本屋でゴーマニズム宣言を読んで衝撃を受けたのもこの頃。


学生時代 - 中途半端なモラトリアム

高校時代、家に親戚の人からもらったパソコンがあって、簡単なプログラミングやゲームをしていた。その流れで、大学では理工学部の情報系の学科に進学。主にソフトウェア工学などを勉強した。関西と言ってもかなり田舎の方で、大した娯楽はなかった。学校以外はファミレスのバイトと麻雀の日々。しっかり勉強した記憶は殆どない。麻雀でのハイライトは、子で清老頭を上がったのと、親で四暗刻単騎をリーチを掛けて上がったときである。


1回生の終わりごろ、春休みの2か月で、ダイキンのエアコンの室外機を組み立てるバイトをして70万もらったのは良い思い出。70万と引き換えに、親指の爪が剥がれ、そして社会の厳しさを思い知ったのだった。ちなみにそのお金はIBMのタワー型パソコンとHONDAのDIOに変わった。


大学に入ってすぐの頃が、世の中にインターネットが出始めた頃だったと思う。その頃はMosaicというブラウザを使っていたのを覚えている。一応、IEもあったのかな。あと、ネスケが威張ってた時代。その頃はここまでインターネットが巨大化するとは思っていなかったと思うけど、そこに気がついてればまた色々と違ったのだろう。折角その周辺技術を学びに大学へ行っていたのに、その時はてんで気が回らなかった。先見の明ナッシング。


就職活動では、特に大きな苦労もなく、第一志望の独立系ソフトハウスに内定。今思えば、ここが人生におけるかなり大きなターニングポイントであると思う。数年は新卒で入った会社でで過ごすのだとしたら、どの業種のどの会社を選ぶかで、まるで人生が変わってくるだろう。もっと前の事を言うと、大学で東京に出ていればかなり違った経験をし、違った人生を歩んでいたと思う。地方からどこの大学に進むかでも、その後の人生は大きく変わるんだな、と強く思う。


Image

SONY DSC-RX1R, 1/250, f/5.6, ISO100, Photo by eto


SE時代 - 仮の人生

上京。


丁度入社した年に会社が一部上場し、ITバブルも最高潮のころで、景気が良かったと思う。入社した年の冬のボーナスで、念願であった機械式時計、ジャガールクルトのレベルソを購入。忘れもしない、12/24のクリスマスに自分へのご褒美として 、新宿のビックカメラにてキャッシュで購入。そして2日後に壊れ、その3日後ぐらいに新品に交換してもらった。奇しくも20世紀最後の日の1日前のことだった。


入った会社は、企業の大小情報システムを請負で制作・運用する会社。プロジェクト制の会社であったためシステムエンジニア(SE)として様々な仕事に携わった。


  • SAP-R/3 会計システムのアドオン開発、パラメータ設定
  • CRMパッケージシステムの導入、代理店業務
  • Hyper-Vの新規導入
  • データセンターの運営
  • その他様々

殆どの仕事は全く面白くなかったけれど、全てが大いに勉強になった。


ただ、この仕事、2年に一度ぐらい、耐えられないほどのビッグウェーブに飲み込まれて死にかけるので、一生はとてもじゃないけど続けていけられないな、と、ある時期に悟った。


その波にパワハラクソ上司やメンヘラな部下が絡もうものなら、本当の意味で死にかける。いや、実際に死にかけたこともあった。そのときの月の労働時間は350時間。それはもう、今となっては良い思い出、なんで今後30年は言えないくらいのトラウマな出来事でもあった。


それでもこの仕事を長く続けられたのは、やはりお金が良かったことが大きい。そしてそれ以外では、同じフロアに可愛い子がいるから、であったり、会社に高性能のマッサージチェアがあったから、といった、意外とどうでも良い理由だったりした。


結局、11年4か月勤めて、自主退社。ニート生活に突入する。


会社にいる何年・何十年か上の先輩の今の姿が、後の自分の姿だと思うと、例えその後のプランが何もなくても、辞めるしか選択肢はなかった。職場には死んだ魚の様な目の人たち、と言うと言い過ぎかもしれないが、それに近い人たちも、何人かいた。


ニート時代 - 夢心地

会社では2か月分ほど有給が貯まっており、高額な給料をもらいながら、2か月間全く出社せずに遊び呆けた。もしかしたら、ある意味でこの2か月間が、それまでの人生で最高の時間だったかもしれない。


数年前からデッサンを習っていたので、この時期は毎日のようにアートスクールに通い、来る日も来る日もデッサンを描き続けた。超幸せな日々。夢の様な日々。ずっと続く訳ではないのはもちろん分かっていたが、不思議と何の不安もなかった。それまでの貯金や退職金、雇用保険などでお金に困ることが全くなかったのも大きい。


この頃、母親に会社辞めてぶらぶらしてることを伝えたら、封筒で手紙が来た。とりとめのない文章が綴られていたが、要約すると、「あなたのことがわかりません」、という悲痛な叫びだった。読み終わって速攻電話をした(笑)。


結局、かなりの数のデッサンを描いた。初めの2か月ぐらいは一気に上達したが、そのあとはあまり変わらなかった。なぜなのかは未だにわからない。また最近再開して描き始めたので、いつか上達した実感が得られれば良いと思っている。


この頃については、今思うと他にもやることあっただろう?と思わなくもないが、兎に角、当時はノンストレスで幸せだった。都心の良い場所の、結構広い部屋でやりたい放題。食事は全て外食。幸せで仕方がなかった。


そして、1年経った頃に、そろそろと言う感じで就活。ハローワークで怪しい映像制作会社を発見し、3DCG制作で未経験OKだったので試しに応募して面接してもらった。結果、無給で良かった来ても良いと言われた。ハローワークに出してる会社はロクなのがないな、と改めて思った。


面白そうなので、行くことにした。


映像制作会社時代 - 濃密な4か月

実際には、働き始めて1週間程度で、来月からは給料出しても良いと言われた。一応、気に入られたようだった。来月からということは、今月の残り3週間は無給ということ。超高級3DCGソフトのMAYAを勉強しながら、会社のHPをWordPressで制作した。


小さな映像制作会社で、自分は一応正社員として採用されたが、正社員は自分一人だけだった。あとは契約社員とアルバイトと外部の人間。実は同じ時期に入った3DCG経験者の人間も居たが、変な奴で、精神が崩壊して2か月ぐらいで辞めていった。今頃どうしてるんだろう?ま、ハローワークに求人を出してるような会社には、ろくな人間が集まらないな、と激しく思った。まあ、自分もそのうちの一人な訳だが・・。


ここでは、自社のHP以外にもWebのサービスを独学で作ったり、3DCGを作ったり、映像制作に関わってAD的なこともした。実際に、誰でも知っているようなタレントさんと一緒に、映画館で流されるCMに出させて頂いたこともあった。短いながらもとても濃密で、滅多にできないような経験を沢山させてもらう日々を過ごせたと思っている。


ここの会社の社長は、東大法学部の卒の超インテリで、怖いもの知らずの長身イケメンおっさんだった。見た目が俳優さんみたいな人。ただ、頭が良すぎるため!?に何を考えているかわからず、次第にコミュニケーションが上手くとれなくなっていった。自分以外の周りの人間も、この人に対して、程度の差こそあれ、同じように感じているようだった。


正直言って、それまでの人生で会った東大・京大レベルの人々とは、あまり良い思い出がなかった。もう少し具体的に言うと、仕事はできるが何か嫌な感じで、決して友達になろうとは思わないし、決して尊敬できないような人間ばかりだった。だから、「やっぱりな」と思った。


社長は3人も子供がいるのに、毎日のように会社で寝泊まりしていた。なぜだかは、わからない。そして、働き始めて2か月目くらいから、給料が決まった日に支払われなくなった。残業代も、なんだかんだ理屈をこねて、一切払われなかった。いきなり自分を含めた周りにブチ切れたり、嫌味を言ってきたりしもした。


そろそろ無理だな、と思った。


いまでも忘れないが、辞める前の3日間で3徹させられて、気が狂いそうになった。断ると給料がもらえない様な気がしたので、当時は頑張って3徹したのだった。そのせいでその後2か月ぐらいは体調が悪かったのを覚えている。


今でもSNSなどで、「知り合いではありませんか?」的な感じで社長の名前が出てくる。見る度に、気分が悪くなる。


Web制作会社時代 - 無駄な4か月

前職を辞める為に決めたような会社。三軒茶屋の薄汚れたマンションの一室にその会社はあった。


面接のために行った時にも変な予感がしたが、出社初日の朝ミーティングの雰囲気でどんな会社かは大体分かった。外れだった。


50過ぎの疲れ切った社長に、営業は社長の奥さま、かつ、無知で性格が悪いという、正に最強の布陣(笑)。ちなみに夫婦で経営してるのが分かってたら、多分入社しなかったと思う。言えよな、ちゃんと!


社員は10名弱だったが、皆暗くて擦り減っていた。ずっとここで働いている人はこれが当たり前だと思っているのかな、と思ったりしていた。


ここでは主に、Webシステムの制作やeラーニングソフトの設計などを行った。が、会社の方針がアホだったこともあり、正直に思うことを言っていたら、首になってしまった。その瞬間は最高に嬉しかったし、実際に辞めた日は本当に清々しかった。


この会社で知り合って今も続いている友達もいるが、正直、人生においてこの会社に勤めた4か月は最も無くても良い4か月間だった気がする。強いて言えば、三軒茶屋がどんな街かよーく分かったことぐらいが収穫かな。


無職時代 - 病的な4か月

晴れ晴れだったのは辞めた日と翌日だけだった気がする。もはや、働いてない状態をニートと呼ぶこともできない年になっていた。単なる無職だ。


この頃から、夜、寝ても、朝まで寝た感覚がない、謎の現象がたまに現れるようになった。花粉症のために飲んでいた薬の影響もあるかもしれないが、何だか心身共におかしかった。


知人から、新宿のギャラリーで展示をするので、一緒に出さないかと誘ってもらい、そのために5枚の画を描いた。デッサン3枚とアクリル画2枚。一か月間、毎日描きに描いて、何とか完成。飾られたのを見たときは感慨深かったが、一方で燃え尽きた感もあった。


金銭的にはまだ余裕があったので、前みたいに自由に暮らせればよかった。ただ、展示会で一区切りがついてしまっていたし、人生における次の一手が特に明確に浮んでいなかった。そして、真綿に締め付けられるような感覚で、見えない何かに、気付かない内に徐々に蝕まれていった。


一人で家にずっと居ると、良くない。少なくとも自分の場合は。今の自分の立ち位置が、知らず知らずのうちに分からなくなってくる。勝手な想像が自分を苦しめることもあったと思う。


勝手に悪い方に考えて、勝手に変に解釈して・・・。まったく生産的になれない日々。そして一人だけでの食事。食べるだけの、燃料のような食事。そしてある日突然、急に理由も分からず体調を崩した。未来少年コナンを何日かかけて観終わった翌日のことだった。その頃は、ある時は5日連続で一睡も出来ないこともあった。医者に処方された薬も日に日に効果が出なくなっている。そろそろ限界かもしれない。。


1か月前に2回目の更新をしたばかりのマンションを引き払って、実家に避難した。


ちなみに、この頃の自分は、自分では体調が最悪だと思っていたが、周りから見れば、いつもと何ら変わらない状態であったようである。体調というか、精神状態が最悪だったのだと思う。そうなった具体的な理由は良くわからない。ストレスかもしれないし、食事かもしれないし、漠然とした将来の不安かもしれない。もしかしたら、放射能の影響かもしれない。


ステンドグラス制作会社・アルバイト時代 - プロローグ

実家に帰ってからは、前の医者から出された薬を辞め、漢方薬を飲んでいた。そしてプロテインとにんにく卵黄。何が効いたかは分からないが、日に日に体調が良くなっていった。


腕の良い接骨院の先生に出会ったのも大きいかもしれない。兎に角、実家に戻って半年で、ほぼ全く問題ないレベルまで体調は回復した。


実家に戻って直ぐに、気分が優れないながらもステンドグラスを始めようと思い、色々と画策した。父親がステンドグラスを仕事にしていた時期があり、一通りの道具などは揃っていたし、健在の母親もやり方は知っている。だが、家で一人で覚えるのは効率が悪いし分からないことが多く、直ぐに最寄りの教室に通い始めた。


そこの教室は、受注生産のステンドグラスを沢山作っている本格的なステンドグラス工房であった。運が良い事に、教室で習う代わりに、働きながら覚えさせてもらえることになった。


そこでの仕事は、面白かったし、なによりも興味を持って取り組めた。そして、ガラスが綺麗だった。なんだか自分に語りかけてくるように、思えた。


始めの1年はそうでもなかったが、1年が過ぎた頃から、この道を歩むことを真剣に考えはじめた。そして出した結論が、「Go」だった。


行けるところまで行ってみようと、思った。


Image

SONY DSC-RX1R, 1/80, f/4.0, ISO200, Photo by eto


おわりに

思うがままに書き綴ってしまったが、まあ大体こんな感じの人生を歩んできた。


人生、本当に何が起こるか分からないものである。偶然と出会いの連続。仮に自分に能力があっても、どうにもならないことは多々ある。スポーツ選手などではない限りは。ましてやサラリーマンなんて、ちょっとぐらい優秀だろうが、たかがしれている。


多少の凸凹はあるが、基本的に年を取るほど楽しくなってきていると思う。色々と世の中の仕組み・成り立ちが理解できてくるからだろう。人間というものも、段々と分かってきた。


7月から東京に戻り、「ステンドグラス制作会社・正社員時代 - 黄金の風」を迎えます。


人生は続く。




Pocket

関連する記事 - Related Post

DSF02584_400

2年ぶりの東京暮らし、スタート【前篇】

2年ぶりの東京 以前にも少し書きましたが、執念が実り!?、運良く東京のステンドグラス工房で働けることになりました。丁度2年ぶりに東京に戻ってきましたね。 工房が23区内にあるので、家も23区内で借りるこ...…
続きを読む
DSF01847_400

ステンドグラス職人になる方法

はじめに 「夢を持ってはだめ」 私が初めてステンドグラスを作ったのは、東京の都心にある、とある個人の方の工房でした。その頃、色々あって急にステンドに強い興味を持ち、当時荻窪に住んでいた私はネットで近くのステンド...…
続きを読む
DSC03153_400

2年ぶりの東京暮らし、スタート【後編】

買い物 さてさて、この部屋にどう家具を配置するのか。もはやゲーム感覚です(笑。 一通り持ってきた荷物は配置しましたが、机と椅子がありませんでした。さすがにこれがないと暮らせないことに気づき、都内の家具屋などを探...…
続きを読む

Comment

メールアドレスが公開されることはありません。